ゆるっと広告業界

デザイナーのひねもす。

好き嫌いセンサー。

特別お題|愛想疲れの人に伝えたいこと

こんばんは、さじです。

人間観察が得意です。人に会う、人と話す、人の話を聞くことが好き。初対面で嫌いだなと思うことはあまりない。割とコミュニケーション能力は長けていると思う。話の通じないおかしな人もたまにいますが距離をとって対処します。会社辞めたり。

人付き合いの相性には好き・嫌いの他に得意・苦手もあると思う。好きだけど苦手なタイプもいる。例えば頭の回転の恐ろしく速い人。自分、学がない分インテリには弱いのですが、見透かされそうで怖いので苦手。陰から見ていたい。逆に、嫌いだけど得意なタイプもいる。こちらも例えると、マウントとりにくるアホはそれに触れずあしらう。ちと不満そうですがそんなやつを満足させてやる義理はない。

と書くと、まるで好き嫌いがハッキリした人間のようですが、昔から備えていた気質ではありません。30歳過ぎてからそうなった。現に、今も好き嫌いセンサーはオンになるのが遅くて時間かけないと見抜けない。前にも書いた気がしますが、他人の気持ちを考え過ぎて疲弊してた時期があったなあ、と。それまでは「他人の一面を見て嫌うのは損なこと」「誰からも好かれるのが良い生き方」と刷り込まれて生きてきました。この30歳頃が転換期。

子どもが二人おり、家族が一番大事になった時期。その頃は第一回目のフリーランス、当時はSOHO(Small Office,Home Office)の方が通りがよかったが、自宅で仕事をしていた頃だ。この時期に次々と出会った人物が酷かった。類は友を呼ぶというか、良い仕事もないしとにかく買い叩かれて全然稼げなかった。時代としては今ほどでないにしろ印刷業界が真っ逆さまに落ちている出版不況で、体力のない印刷業は次々廃業していったように思う。そして、そういう最も稼げない時期にうっかり独立しちゃった自分も時代を全く読めてなかったんだけど、先の通り、家族が一番大事になったため仕方ないと言える。おかげで貴重な幼少期を見守れたから満足。

しかしその時期の人付き合いで、無理に付き合う必要のない人間がいることを実感する。「人を嫌う」のは悪いことじゃないと気づいた。それまでの人生でそこまで非常識な人間に会ってなかったのが奇特だったのかもしれない。しかしこれは自分には衝撃だった。嫌いかもー、苦手かもー、と感じてたけど。いや、大っ嫌いだったわ(笑)

ちょっと嫌い、ちょっと苦手ってのはもちろんそれまでもあった。学校の一部の教師や知人、毎度無愛想な店員、倫理観のない同僚。そんな人たちの自分の接点はほんの小さなものなので、それ以外は「見えてないだけ」と思っていた。違うんだ、自分との接点が一部なんじゃなくて、接点が自分にとっては全部なのかと気づく。

そのことでそれまでの人付き合いの価値観が崩れた。世の中には嫌いでもいい人がいる。「表面を見ないですべてを見るべし」は幻想だった。そいつらに好かれたいと思う必要はない。自分は「嫌いな人も含めたみんな」に好かれようとして疲れていたんだね。

その後は感情が自由になった。自分にとって大事な人と幸せな時間を過ごすためには最大の努力をする。嫌いな人間は喜ばせる努力をしなくていい。そしたら凄い楽になった。だって好きになってもらう必要ないんだもん(笑)

それでも、大人なのでどんなに嫌いでも社交辞令は欠かせません。冒頭にも書いた通り、嫌いな人間には無駄に反応しなければいいだけです。特に喜ばれもせず好かれることもない代わりに、まとわりつかれることもなくなった。付き合いの負担は確実に減る。

しかしそれまで身に付いたコミュニケーション能力はそのまま使える武器にはなったと思う。営業には万人受けする能力って便利。誰にでも愛想笑いできるしフリーランスには必要なスキルでもある。

自分にとっては人に嫌われてはいけない、嫌いになってはいけないってことが根付いてたので、気づくのに30年かかってしまった。嫌いは嫌いでいいんだよね。秘めとくだけなら誰も傷つけない。

さじ