豊かに暮らす。
YouTube|アゼルバイジャン料理動画から感じた「食」と「生活」
こんばんは、さじです。
先日、はてなブックマークのエントリーで話題になってたアゼルバイジャンの動画。
親が「最近You Tubeでこれ観てる。新しい世界みつけた」って言うから(真実みつけちゃうやつか!)と覚悟してたけど自分もハマった - Togetter
普段こういうの見ないんですけど、「気づいたら1時間経ってた」なんてあるので、またまた〜と見てみた。そしたら、自分も1時間経っていた。。
ひたすら料理するショート動画。5分ほどで全部見終わってしまい、なんとなく物足りなくて長動画の方を流し始めた。「生活する」とはこういうことか。
以前SDGs絡みの本で読んだのに、農耕と肉食に関する記述がありました。人間が「肉」を育て始めたことが食のバランスを崩し始めたきっかけで、肉食をやめると地球への負荷が減る、みたいな考え方でした。かといって肉は美味いので肉食やめようの極論ではありません。ただちょっと考えさせられた話。
人間が必要なだけ作物を育てて、獲物を狩るだけの時代から、家畜を育てて流通させたことで必要になったのが飼料で、家畜のために作られる作物がある、ということに繋がるという。世界で見ると、十分な食糧を得られない飢餓の人間(主に途上国)がいて、食糧(飼料)で育てた家畜の肉を食べる裕福な人間(主に先進国)がいる。ガツッと殴られたような感覚。
動画では鶏やアヒルを飼っています。餌を与える場面から始まり、可愛いなーとほのぼのとします。卵食べるのかな?ほどなく、お父さんは薪をくべ、おばあさんは料理を始めます。そこで捌くのが鶏肉です。鳥は食糧だった。
一羽(既に解体済み)を丁寧に部位に分けていき、水で洗い、煮込みます。野菜を切り、米を炊く。栗の木をゆすり拾う。ひとつひとつ割って、一部は焼き栗に、残りは茹で栗にして皮を剥く。全てが手作業で、必要十分という言葉が過っていきます。無駄がなく、余分もなく。自分たちの思ってきた「食の豊かさ」とは。
食は文化の発達ですので、そこを否定するわけではないし、シェフが腕を奮ったとろけるようなA5ランクの肉や、自分にとってはご馳走のカップラーメン、ちょっとした贅沢のデザートを食べられなくなれば悲しい。でも、それは「豊か」ではないんだなーと動画を見ててしみじみ思った。足元にも及ばない。
食だけに限らず、必要十分な生活。自分の雑な暮らしはアゼルバイジャンの家族には一生敵いません。
さじ